■12. なぜ、エピローグで圭介は帆高の話を全否定したのか?

圭介は、十代で家出&上京し、そこで出会った少女と恋愛したという帆高の人生の生き写しのような人物です。また、帆高が陽菜と体験した奇跡の多くを間近で目撃しているため、あらゆる意味で帆高の最大の理解者です。しかし、エピローグでは帆高の言うことに少しも耳を傾けず、ほぼ全てを否定するわけです。それはなぜでしょうか?

理由は以下の4つにまとまるのではないかと思います。

①帆高の決断と東京水没の因果関係の薄さ
②圭介の大人のプライド
③帆高の子供っぽさの変化への落胆
④帆高の陽菜への思い込みの深さに対する危惧


①帆高の決断と東京水没の因果関係の薄さ

陽菜と天気の巫女に関する作中での「確定事実」は以下9つだけです。
・天の気分を制御できる天気の巫女の伝承が世界中に有るらしいこと
・天気の巫女は最終的に人柱として消えるらしいこと
・陽菜が一時的に晴れを作る能力を持っていたこと
・晴れの祈りのたびに陽菜の体が徐々に透けていき、最後に消失したこと
・陽菜が消失した後、一時的に東京の空が晴れたこと
・陽菜が消失した瞬間、東京中の人が陽菜の夢を見たこと
・帆高は消失した陽菜を連れ戻すのに成功したこと
・帆高が陽菜を連れ戻した後、また東京の雨が再開したこと
・再開した雨は2年半以上止んでいないこと

これを踏まえると、陽菜が人柱であるというのが真実だったとしても、「陽菜を連れ戻す⇒東京が沈む」という因果関係の説明は、論理に飛躍が多過ぎることになります。気象神社神主の話によれば、天気の巫女というのは世界各地に昔から存在したということであり、陽菜だけが天気の巫女というわけではないのです。陽菜と同等の能力の人間もまた、近々にも生まれ得るわけです。そしてその人が人柱になって天の怒りが静まる可能性も有ります。同時に、天気の巫女は「天」の怒りを鎮めるのが仕事というだけで、雨を降らせる主体はあくまで「天」です。「天」が怒るのを止めたら人柱など関係なく今すぐにでも雨は止むでしょう。さらに、天気の巫女が消失した後の天気がどうなるのかについて作中全く定義が有りません。もしかすると陽菜を帆高が救出しなかったとしても1週間後くらいにまた雨が振り始めてしまう可能性さえ有ります。よって、作中事実を並べても帆高に世の中の行く末を決める決定権が有ったとは考えにくいです。圭介はこれがわかっているため、確定事実以外の部分の多くを想像で補った帆高発言について真に受けることが出来ないのです。


②圭介の大人のプライド

十代の若造による「自分の選択で世の中や社会が大きく変わった」的な発言は、たとえ真実だったとしても大抵の大人にとって認めたくないものだということです。アニメ「機動戦士ガンダム」では、主人公のアムロ・レイが、「自分の無力のせいであなたの婚約者のマチルダ中尉が死んでしまった」と言ってウッディ大尉に謝るシーンがあります。しかし、ウッディは「自惚れるんじゃない、アムロ君。ガンダム一機の働きで、マチルダが助けられたり戦争が勝てるなどというほど甘いものではないんだぞ!」と怒るわけです。アムロは帆高と違って超人です。一人の力で戦争の局面を大きく変える力さえ有る人物です。それでもウッディにはアムロの発言が許せないのです。ともすれば、圭介が帆高について考えることは言うに及ばずです。


③帆高の子供っぽさの変化への落胆

新海監督は小説のあとがきや劇場版パンフレット、公開直前の雑誌インタビューなどで本作のストーリーを構想したきっかけを話しています。そこでは、前作が多くの人にディスられたことに対する反発と開き直りについて触れられています。これらを読んでわかるのは、新海監督の世間への承認欲求が巷での大量の作品非難によって満たされなかったということです。大の大人である自分が承認欲求という子供的な感情を顕にしてしまったことに気づいた新海監督は、ふと「こんな大人と対極的な子供って何?」と考え、さらに、それは「自分の好きなものに向かって一直線な子供ではないか?」と考えたのではないでしょうか。こうして本作の帆高の性格が出来上がったとするとわかりやすいです。ところで、エピローグの帆高はどちらかと言うと一直線というよりは承認欲求の塊に見えます。圭介に認めてもらおう、陽菜に認めてもらおうという感じです。帆高は子供から大人に成長したと言うより、子供から別のタイプの子供に変わっただけということも考えられるのです。それが圭介(の姿を借りた新海監督)には残念だったのではないかということです。


④帆高の陽菜への思い込みの深さに対する危惧

帆高と陽菜の天空での体験は非常にファンタジー的なものです。夢の可能性というのはどうしてもつきまといます。なお、世の中ではファンタジー云々とは関係なく、同じ場に居合わせた人同士の記憶が揃っていないということはよく有ることです。3年間もお互いにコミュニケーションしなかった二人が同じ記憶を持っているかどうかは定かではありません。しかし、帆高は陽菜と会ってお互いの記憶を確かめ合うのを怖がっており、その一方で陽菜もこう考えているだろうという推測を語るのです。こんな帆高の様子を見れば、圭介でなくても「早く会って二人で確認しあえよ。そうでなきゃ、全部お前の妄想の可能性も有るぞ」と言いたくなるでしょう。


なお、映画&小説での描写を見るに、①~③は帆高も感づいているという気がします。④については、小説のラストシーンにおける「君はなんて尊いのだろう。自分だって泣いているのに。」の心情描写からするに感づいていない可能性が考えられます。

コメント

このブログの人気の投稿

02. 本編ストーリー後、帆高と陽菜二人は結ばれたのか?

13. 帆高と陽菜の再会時、雨が弱まったのは陽菜の祈りが天に届いた証拠か?