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14. 新海監督の次回作で本作の二人がカメオ出演する可能性は有るか?

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新海作品は過去作キャラが頻繁にカメオ出演する傾向なので、その可能性は十分に有ります。ただし、過去作における前作キャラのカメオ出演については、作品間の世界線に矛盾を持った状態のものであることがよく指摘されます。「言の葉の庭」と「君の名は。」間では、雪野先生は2013年に東京で教鞭をとっていたのか、はたまた糸守でなのかが矛盾します。「君の名は。」と「天気の子」間では、2022年4月の東京は晴れていたのか雨だったのかが矛盾します。 なお、次回作に向けて新海監督は、雨が降り続いて水没した東京をこれ以上描くことにあまり乗り気を感じないのではないでしょうか。また、陽菜を見殺しにして晴れが戻った世界も描く気は無いだろうとも感じます。さらには、これまでのインタビュー記事の印象から、二人の恋が実ったか実らないかも描くつもりが無いだろうと言えます。 だから、もし帆高と陽菜が次回作にカメオ出演するのであれば、晴れ上がった2024年以降の東京で、帆高も陽菜も両方生きた状態、かつ、恋人関係かも不明の状態で登場する可能性が一番高いのではないかと思います。 視聴者側は、「一体どこから世界が分岐したんだろう?」「二人の恋はどうなったの?」と、すごく想像力を掻き立てられてしまう展開ですね。

13. 帆高と陽菜の再会時、雨が弱まったのは陽菜の祈りが天に届いた証拠か?

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本作ラストシーンでの帆高と陽菜の再会時、雨が非常に弱まっていますが、これを陽菜の祈りが天に届いた証拠と考えるのは少々難しいと考えられます。 新海監督は救出時の陽菜のチョーカーが切れていた理由について、天気の巫女からの解放を意味するのだろうことを劇場パンフレット第二弾で語っています。また、帆高がアパートで聞いていたラジオの天気予報にて「都市部では非常に雨が弱まる時間も有るでしょう」というセリフが登場します。これは、雨の降り続く東京においても一時的に雨が弱まることが有ることを、わざわざ新海監督が観客に伝えるために入れたものと思われます。そうでなければ、あのような直接的なセリフをわざわざ作品に入れたりはしないでしょう。 なお、新海監督のインタビューでの発言などから推測するに、異常気象が起きている中でも、正確な天気予報がなされている様子を作中に入れ込むことで、人類は自然と対峙できるだけの叡智を持っていることを示したかったという可能性も有ります。

■12. なぜ、エピローグで圭介は帆高の話を全否定したのか?

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圭介は、十代で家出&上京し、そこで出会った少女と恋愛したという帆高の人生の生き写しのような人物です。また、帆高が陽菜と体験した奇跡の多くを間近で目撃しているため、あらゆる意味で帆高の最大の理解者です。しかし、エピローグでは帆高の言うことに少しも耳を傾けず、ほぼ全てを否定するわけです。それはなぜでしょうか? 理由は以下の4つにまとまるのではないかと思います。 ①帆高の決断と東京水没の因果関係の薄さ ②圭介の大人のプライド ③帆高の子供っぽさの変化への落胆 ④帆高の陽菜への思い込みの深さに対する危惧 ①帆高の決断と東京水没の因果関係の薄さ 陽菜と天気の巫女に関する作中での「確定事実」は以下9つだけです。 ・天の気分を制御できる天気の巫女の伝承が世界中に有るらしいこと ・天気の巫女は最終的に人柱として消えるらしいこと ・陽菜が一時的に晴れを作る能力を持っていたこと ・晴れの祈りのたびに陽菜の体が徐々に透けていき、最後に消失したこと ・陽菜が消失した後、一時的に東京の空が晴れたこと ・陽菜が消失した瞬間、東京中の人が陽菜の夢を見たこと ・帆高は消失した陽菜を連れ戻すのに成功したこと ・帆高が陽菜を連れ戻した後、また東京の雨が再開したこと ・再開した雨は2年半以上止んでいないこと これを踏まえると、陽菜が人柱であるというのが真実だったとしても、「陽菜を連れ戻す⇒東京が沈む」という因果関係の説明は、論理に飛躍が多過ぎることになります。気象神社神主の話によれば、天気の巫女というのは世界各地に昔から存在したということであり、陽菜だけが天気の巫女というわけではないのです。陽菜と同等の能力の人間もまた、近々にも生まれ得るわけです。そしてその人が人柱になって天の怒りが静まる可能性も有ります。同時に、天気の巫女は「天」の怒りを鎮めるのが仕事というだけで、雨を降らせる主体はあくまで「天」です。「天」が怒るのを止めたら人柱など関係なく今すぐにでも雨は止むでしょう。さらに、天気の巫女が消失した後の天気がどうなるのかについて作中全く定義が有りません。もしかすると陽菜を帆高が救出しなかったとしても1週間後くらいにまた雨が振り始めてしまう可能性さえ有ります。よって、作中事実を並べても帆高に世の中の行く末を決める決定権が有ったとは考えにくいです。圭介はこれがわかっているため、確定事実以外の部分の多くを想

11. 帆高は16歳⇒18歳で成長したのか?

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帆高は16歳の時点で圭介のオカルト雑誌記事作成の補佐が務まる文章力やPC活用スキルが既に有りました。またスキルや経済的に困窮する陽菜の様子を見て、すぐに晴れ女ビジネスを思いつき、ウェブサイトをすぐに立ち上げる実行力も有りました。よって、帆高はこの時点で色々とハイスペックな子です。しかし、当時の彼の欠点は、憧れの陽菜が絡むと銃を発砲したり、線路に侵入したり、自転車を盗もうとしたりと、違法なことが全く躊躇なくやれてしまう激情型の性格でした。言うなれば、チキンと言われると逆上するバックトゥザフューチャーのマーティ・マクフライのような性格でした。 マーティは映画のラストシーンでこれを克服出来ていましたが、18歳の帆高も小説版では成長の具合が以下のようにしっかり記述されています。 ――引用開始―――――――― 誰かを心配させないように、安心してもらえるように、僕は出来る限りきちんとした生活を送るように努めた。それは掃除を進んでやるとか授業を真剣に聞くとか人付き合いから逃げないとか、まるで言いつけを守る小学生のような所作に過ぎなかったけれど、いつの間にか成績は上がり、友人は増えていった。大人から話しかけられることも多くなった。 ――――――――引用終了―― 学力の上がった帆高は以下のように考え、帆高は2024年に東京農工大学の農学部に入学します。 ――引用開始―――――――― この二年半、脳が擦り切れるほど考え続け、大学は農学部に決めた。気候が変わってしまった今の時代に必要なことを学びたかった。 ――――――――引用終了―― 上記から、少なくとも偏差値63以上の学力がついていたと推定されます。 東京農工大学 偏差値 https://manabi.benesse.ne.jp/daigaku/school/1180/hensachi/index.html なお、上記で紹介した小説の一節に有った以下の部分は少し補足が要ります。 >まるで言いつけを守る小学生のような所作に過ぎなかったけれど 「エゴグラム」に即せば、上記は「FC(自由な子供)」の数値が下がり、「AC(適応的な子供)」の数値が上がったということを意味します。成長というより、子供的な人物が、それとは別の子供的な特性を身につけただけとも言えるのです。 Wikipedia:エゴグラム https://ja.wikipedi

10. 本作冒頭で帆高がフェリーの甲板で雨に打たれて喜んでいたのはなぜか?

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小説版では、帆高の心境が以下のように記載されています。 ――引用開始―――――――― やった、と僕は小さく声に出した。今なら甲板を独り占めできるかも。尻の痛い二等船室にもいいかげん飽きてきたところだし、他の乗客が戻ってくる前に甲板に出て雨の降る瞬間を眺めよう。 ――――――――引用終了―― また、以下のMovieWalkerのインタビュー記事で新海監督は、帆高が上記のように感じた理由を以下のように説明しています。 https://movie.walkerplus.com/news/article/200872/ ――引用開始―――――――― 冒頭の船のシーンは、帆高の傾向や性格のようなものを描いたつもりです。『非常に激しい雨が予想されます。安全のため、船内にお戻りください』という放送がかかり、みんなが船の中に戻っていくんですが、そんななか帆高だけは逆方向に歩いていく。『この男の子は、人と反対の方向に行ってしまうんだ、大人に言われたことと逆のことをやってしまうんだ』ということを描きたいと思っていました。大雨に喜んでいるのは、島を出てきた解放感もあると思います。帆高はみんなが嫌がるような、危険だと思うようなことに解放感や喜びを感じてしまう。そういった、物語の行く末を示しているシーンになります。 ――――――――引用終了――

09. 本作に帆高の家出の理由が描かれていないのはなぜか?

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作中のラブホテルのベッドで帆高が見た夢に、雨の中を自転車をこいで雲間からさす光を追うシーンが有りますが、小説版ではあのシーンに以下の説明が付きます。 ――引用開始―――――――― あの日、父親から殴られた痛みを打ち消すように、自転車のペダルをめちゃくちゃに漕いでいた。あの日もたしか、島は雨だった。 ――――――――引用終了―― このことから、映画冒頭での帆高の顔の絆創膏の謎は、父親に殴られた傷だったと判明します。当然それが家出の理由でしょう。 なお、映画で家で理由を示さない理由について新海監督は、劇場版パンフレット第一弾で以下のように語っています。 ――引用開始―――――――― 帆高は家出をして東京に出てきますが、その家出の理由を劇中では明確に語っていません。トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思ったんです。映画の中で過去がフラッシュバックして、こういう理由だからこうなってたんだっていう描き方は今作ではしたくないな、と。内省する話ではなく、憧れのまま走り始め、そのままずっと遠いところまで駆け抜けていくような少年少女を描きたかったんです。 ――――――――引用終了――

08. 明日花(須賀圭介の妻)が天気の巫女だという説は本当か?

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・須賀圭介は安井刑事から泣いていることを指摘される ・須賀圭介は暴走した帆高の行き先が代々木の廃ビルであることを知っていた 上記の二点から、 「明日花が天気の巫女であり、圭介は明日花を見殺しにし、晴れ渡る東京を選んだ。それゆえに圭介は泣き、廃ビルの場所も知っていた」 という真相を推測する人がいます。 しかし、結論から言うとそれは間違いの可能性が高いです。 明日花が巫女であり、彼女が消えていくのを圭介が見殺しにしたという説が正しいとすると、以下、小説版「天気の子」の須賀圭介の心中の呟きが矛盾します。 ――引用開始―――――――― 俺にも、かつていたのだ。明日花。もしも、もう一度君に会えるのだとしたら、俺はどうする?俺もきっと―。 ――――――――引用終了―― また、圭介が泣いていた理由も上記のセリフだけで説明出来てしまいます。 なお、帆高の行き先が代々木の廃ビルであることは、夏美は本人から聞いて知っているので携帯電話で聞けばすぐにわかります。さらに、圭介は帆高の携帯料金を払っているため、帆高の位置をスマホを使ってすぐに確認することも出来ます。そして、8月21日の夜に圭介を含めた東京中の人が、代々木の廃ビルの屋上から天に消えていく陽菜の夢を見たと作中で描写されています。よって、圭介が帆高の行き先を知らない方がむしろ不自然とまで言えます。

07. 夏美はなぜ圭介の事務所で働いているのか?

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小説版では、実家暮らしの夏美が仲が悪い父と喧嘩するたびに圭介の事務所に逃げ込んでいる旨が描かれます。要するに夏美は帆高と立場的に大きな差が有りません。自堕落な圭介にはマネジメントが必要なため、その役を夏美が担っていると考えれば共生関係だと考えられます。 なお、作中の8月22日の陽菜消失&救出事件で、圭介と夏美は共に公務執行妨害で逮捕されました。同時に二人には身寄りの無い天野家の経済を支えるという義務感も芽生えたと思われます。よって、それ以前とそれ以後で、夏美と圭介の関係は少し変化するでしょう。 2024年に帆高が訪れた新宿のK&Aプランニング新オフィスには、夏美のヘルメットが置かれており、夏美が事務所で正社員として働いていることがほのめかされています。また、このことについては、新海監督はMovieWlkerのインタビューにて以下のように発言しているため、作中の確定事実として扱っても問題ないと思います。 https://movie.walkerplus.com/news/article/200872/ ――引用開始―――――――― 夏美のかぶっていたヘルメットが、エピローグのある場所に置いてあるので、ここで働いているのかなと思ってもらえるかと思います。 ――――――――引用終了―― なお、夏美が陽菜と凪の保護者となって暮らしているだろうことは、非公式ですが新海監督が舞台挨拶の質問などで答えています。

06. 本作は男性に比べて女性のウケが悪いと言われるが、本当か?

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男女別のレビュー評価などを見ていると実際に、男性に比べて女性の受けは悪いようです。その理由については私は、陽菜の感情移入性の低さが原因となっていると考えます。 陽菜は「秒速5センチメートル」の「第二章コスモナウト」における(澄田花苗にとっての)遠野貴樹みたいな存在です。生身の人間というより一種の偶像にも感じられます。「秒速5センチメートル」がもし、第二章しかなかったら男性にはあまり面白くない話に感じられなかったのではないでしょうか。 陽菜役の森七菜が一番好きな新海作品として「言の葉の庭」を挙げ、帆高役の醍醐虎汰朗が「君の名は。」を挙げているのはある意味、想定通りな気がして面白いです。女性にとっては雪野百香里は感情移入しやすく、宮水三葉はしにくいでしょう。三葉は陽菜ほど露骨ではありませんが、偶像っぽい存在なのです。 ところで、エキサイトレビューにて、たまごまごさんという方が以下のようなことを書かれていました。 https://www.excite.co.jp/news/article/E1566059026521/ ――引用開始―――――――― 札幌の「天気の子」舞台挨拶で陽菜役の森七菜が、新海誠監督から「リアルな演技をしようとしたら「もっとかわいく」と監督からいつも指示がでた」という旨のエピソードを語っていた。それを聞いた新海誠監督はすかさず「アニメの女の子はかわいいほうがいいからね」と返した。 ――――――――引用終了―― 監督は、女性客への受けを狙っていないのかなと感じられるエピソードですね。なお、本作に限らず、新海監督は個人差こそあれど、女性より男性、年齢が高い人より低い人に人気が有る傾向です。これは、監督の作品に漂うロマンチシズムに由来するものと思われます。低年齢ほど、また、男性ほどロマンチストが多いというのが統計的に言えるからです。 ところで、新海監督は、ただのロマンチストというだけでなく、運命の男女が結ばれて終わるシンプルなハッピーエンドをあまり好まないのも特徴です。新海監督は「運命の異性」というテーマが好きなものの、これに対して非現実性も同時に表現したい心情がはやるからなのかもしれません。そして、監督は主人公たちが結ばれなくてもバッドエンドではないと主張します。そのことについては、「02.本編ストーリー後、帆高と陽菜二人は結ばれたのか?」で紹介したイン

05. 本作の世界で前作「君の名は。」の二人は結婚出来たのか?

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新海監督は「君の名は。」も「天気の子」もラブストーリーのつもりがなく、人生で初めて憧れの「他者」に出会った思春期の少年の一途な気持ちを描いたのだと複数のインタビュー記事で回答しています。どうやら監督は、主人公達が「結婚」というゴールに到達するかどうかに興味が無さそうです。このためか、監督はこの手の質問については「ファンの皆さんのご想像におまかせします」とはぐらかした回答をすることが多いです。 ところで、「天気の子」を「君の名は。の世界の形が決定的に変えられてしまう」物語だと捉える見方も可能です。わざわざ瀧と三葉が「天気の子」の作中に登場するわけですが、これはサービスカットというだけでなく、2021年夏までは「君の名は。」と同じ時間軸に有ることを示すためだとも考えることも出来ます。作品の途中で「世界の形が決定的に変わってしまう」ことにより2022年4月に瀧と三葉が四谷での再会を果たせないパラレルワールドに突入します。最後の帆高と陽菜の再会シーンは、「君の名は。」のラストに似せていますが、一方で「君の名は。」のラストの不成立を前提にしか成立しえません。もしかすると、監督が「君の名は。」の「恋人を救うと世界も救える一石二鳥の結末」に納得しないファンに向けて、「上書き」の結末を用意したのではないかという解釈も進められるのです。 しかし、一方で新海監督は舞台挨拶で「『天気の子』の世界で『君の名は。』の二人は結婚出来たのか?」という質問を受けて「基本的にはファンの皆さんのご想像におまかせします。ただ、私としては、まぁ結婚しているように思っています。えっ?前作では再会は晴れの日だったって? うーんそれは、瀧と三葉の二人には雨の日も晴れているかのように感じていたからなのかもしれません。」というファンサービス回答をしていた模様です。 ちなみに、立花冨美のアパートに帆高が訪問したシーンにおいて、小説版では「孫の結婚写真」が飾られているとの記述があります。帆高が認識している冨美の孫は瀧のみであるため、瀧が2024年までに結婚したと考えることが出来ます。そして映画版の同シーンでは、冨美の右手首に組紐のブレスレットが着用されており、宮水家由来の可能性も考えられます。この小説版&映画版の両者の情報を総合することで、瀧と三葉は見事結婚したと想像することが可能なのです。なお、組紐のブレスレットが宮

04. 新海監督発言「前作で怒った人をもっと怒らせたい」のさらに深い意味とは?

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新海監督は以下のインタビューで「前作で怒った人をもっと怒らせたい」と語っています。 「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟 https://news.yahoo.co.jp/feature/1389 監督のネガティブな発言は興行収入に影響するため、東宝やKADOKAWA等の製作陣営からは控えるよう再三言われているはずです。それを押して発言した内容なのだから新海監督の強い本音であると推測されます。なお、「もっと怒らせたい」の意味については、インタビューを読んでいただければ、基本的に理解出来ますが、この言葉には更に一歩進んだ意味も込められているのではないかと私は考えます。 インタビューの中でも多少述べられていますが、新海監督は「君の名は。」の時に謂れのないひどい批評にさらされました。特にひどかったのが以下の小説家の石田衣良さんの批評でしょう。 ――引用開始―――――――― 「君の名は。」の監督の新海誠さんも若い子の気持ちを掴むのが上手いと思いました。たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか。それがテーマとして架空のまま、生涯のテーマとして活きている。青春時代の憧れを理想郷として追体験して白昼夢のようなものを作り出していく、恋愛しない人の恋愛小説のパターンなんです。付き合ったこともセックスの経験もないままカッコイイ男の子を書いていく、少女漫画的世界と通底しています。宮崎駿さんだったら何かしら、自然対人間とか、がっちりした実体験をつかめているんですが、新海さんはそういう実体験はないでしょうね。実体験がないからこそ作れる理想郷です。だからこそ今の若者の憧れの心を掴んだのかも知れません。 ――――――――引用終了―― 新海監督は、怒りを込めつつ、感情を抑えたツイートで上記に対して抗議しています。 ――引用開始―――――――― 最近は実に様々なお言葉いただきますが、なぜ面識もない方に僕の人生経験の有無や生の実感まで透視するような物言いをされなければならないのか…笑。 ――――――――引用終了―― そういったことを踏まえ、この作品には「前作に怒った人をさらに怒らせる」というだけでなく「自分の作品に対して見当違いのことで怒ったり嘲ったりする人に恥をかかせる」という「罠」の要素が作品に仕込まれているのではないかと私は感じて

03. 本作プロローグにて、陽菜自身ではなく帆高が陽菜のことを語るのはなぜか?

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作品プロローグの映像は、帆高が陽菜から伝え聞いた内容を想像で補って再現したものです。陽菜は帆高に対して年齢さえも偽っていたので、自分の体験を嘘偽りなく伝えたかどうかは定かでは有りません。観客に対して事実を正確に伝えたいならば陽菜に語らせる方が適切です。それにもかかわらず、帆高をナレーターに起用する理由は何なのでしょうか? 私はその理由は以下2つであると考えます。 ①状況を帆高自身に語らせたい ②事実を正確に伝えたくない ①状況を帆高自身に語らせたい 映画パンフレット他、色んなインタビュー記事で新海監督は、本作で描きたいのは第一に帆高の一直線な「強い思い」であると答えています。それゆえ、帆高以外の人にストーリーを語らせるのは適切ではありません。陽菜も本作では帆高の客体に過ぎないのです。 ②事実を正確に伝えたくない 本作世界の出来事が「神の視点」で語られてしまうと、作品から帆高の主観性が薄まってしまいます。帆高の強い思いを表現したいのにこれではマズイです。だから、帆高自身が認識する作中出来事の内容についてはむしろ誤解が含まれるくらいの方が良いわけですね。 また、日経サイエンス10月号のインタビューや公式ビジュアルガイドでは、新海監督は、天の気分と人類の影響が相まって変わってしまったかもしれない気象の異常事態を人々に警告したい旨を語っています。帆高の言うことが完全に真実だとすれば、東京が水没したのは帆高の決断が原因であると確定します。それだと、監督が行いたい警告の意図が飛んでしまいますよね。

02. 本編ストーリー後、帆高と陽菜二人は結ばれたのか?

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2人は無事結ばれたかについて、私の答えとしては「わからない」となります。 作品の終幕時点でお互いがお互いに好意を持っているのは間違い有りません。特に帆高は陽菜にゾッコンですが、陽菜も雲の上の彼岸に飛ばされたシーンで帆高への感謝の気持ちや好意を語っています。また、何よりも再会シーンで飛びかかって相手に抱きついたのは陽菜の方です。 ところで、「君の名は。」の再会シーンでは瀧と三葉の両方が涙を流していました。しかし、「天気の子」では帆高の方だけ涙を流し、陽菜はその理由がわからず帆高に「大丈夫?」と尋ねています。そして、帆高はその返答としては噛み合わない「陽菜さん、僕たちは、きっと、大丈夫だ」という回答をします。 噛み合わない理由は、ラストシーンでBGMとして流れている「大丈夫」の「崩れそうなのは君なのに」の歌詞に答えがほのめかされていると考えられます。「崩れそうなのは君なのに」の部分が帆高の心境を意味するのであれば、おそらく帆高は「泣きたいのはお互い様なのに陽菜は優しいから相手のことだけを気遣っている」と受け取ったのでしょう。どうやら、帆高は陽菜の発言について意図を勘違いしている可能性が有るようです。 この不穏さを裏付けるように新海監督はCUT誌2019年8月号のインタビューで以下のように発言しています。 ――引用開始―――――――― (天気の子は)ラブストーリーに見えるんですけど、いわゆるラブストーリーじゃないとは思うんですね。多分観客は、ふたりの恋の行方がどうなるかっていう視点ではこの映画を観ないと思う。僕としては、ふたりが恋人同士になれる気はあんまりしていないですよ (中略) このふたりが付き合ったとして上手くいくと僕はどうも思えないので ――――――――引用終了―― 実に新海監督の作品には、運命の女性(or男性)というものが繰り返し登場しますが、一度として彼ら彼女らが、相手と明確に結ばれた事はありません。「君の名は。」の二人でさえ、再会の後に付き合ったかどうかは不明です。 上記のように監督自身二人の相性は良いと思っていないようですが、その一方でストーリーはすでに世に放たれた後なので神様のように二人の運命に干渉する気も無さそうです。新海監督は二人に合コンのセッティングをした立場の心境なのではないかと私は想像します。 合コンの場では少々話が噛み合わなくて不安な印象であ

01. 本作における新海監督からの最大のメッセージとは何か?

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現実の世の中において2010年代以降、夏の降水日数は年々多くなっている傾向です。これは人間が地球環境を変化させてしまったための異常気象ではないかと世間では言われています。 一方、作中の気象神社の神主は、「何が異常気象じゃ?だいたい観測史上初とか、世間はすぐそんなことを言う。そりゃいつからの観測だ?せいぜい百年。」と言います。 現代の人々が考える「普通の気象状態」とは、ここ100年程度の平均的傾向に過ぎません。それ以前においては、作中のような3年間にも渡って雨雲が一箇所に滞留する事象も有ったかも知れないということです。 しかし同時に、大昔に似たような現象が有ったということが、人類が気象の異常の原因となっていないという根拠にはなりません。人類は人類の責任において異常気象と向き合う必要が有るかも知れないということです。 また、本作のクライマックスである帆高の陽菜救出劇自体が、帆高の夢の中の出来事である可能性も完全否定はされておりません。そして、たとえ帆高の体験が真実だったとしても、彼の行動が東京水没の主因であるという根拠は作中に一切示されていません。 人身御供として捧げられた天気の巫女を黄泉の国から奪い返した帆高と、地球環境を変化させることで異常気象を生み出してしまったかも知れない人類が、それぞれ首都圏への3年間の雨雲の滞留という結果を生み出したのか?はたまた全く生み出してもいないのか?正解を決め難いこのことを観客に色々考えてもらうことが本作一番の主題であり、メッセージだと私は解釈します。 なお、新海監督は2019年8月21日のKAI-YOUのインタビューで以下のように回答しています。私自身の作品解釈は上記で述べたとおりではありますが、以下も踏まえる必要が有ると考えています。 ――引用開始―――――――― いい意味でも悪い意味でも、映画を観るということは単純に体験として「面白かったのか、つまらなかったのか」という動物的な反応が一番大事だと思うんですよね。「映画が伝えたいメッセージに賛同できなかったのに、思わず泣いてしまった」といったことを言われるのが一番嬉しいし、何かが出来たような気がします。 ――――――――引用終了――